ノスタルジィのお葬式

遺書を殘す積もりでいろいろ考えてみる

「いいわけ」という言葉が嫌いなひとは親近感を覚えます。

わたしをこわした言葉があります。

中学一年生の時に担任の先生と二者面談をした時の話。

担任の先生は理科の教師で、ふわふわしていて、にこにこしていて、綺麗なスカートを履いていて、怒ると怖かったけれど、わたしはたぶん好きなのでした。

わたしは教師という人種に好かれる質の人間でしたが、その先生はどこか苦手でした。それでも好きだと思い込んでいましたが。

 

「そんなにいい子ぶらなくていいのよ」

 

ろうかちゃんは頑張っているけれど。

無理にいい子ぶらなくて。

 

その言葉が衝撃的で、忘れられません。

あの頃より老成したので、いまのわたしは、その発言の意図がわかります。

無理すんなってことなんでしょうね。

心配だったのかもしれません。何故か忘れ物が多くて授業中に眠ることの多かった睡眠障害のわたしのことが。みんなあたりまえのようにやっている、日記を書いて提出するということがまともに出来なかったわたしのことが。

 

わたし、頑張ってませんでした。

いい子ぶろうと思ったこともありませんでした。

いい子なんです。規律は重んじます。信号は守ります。でもそれはわたしの中で当然のことでした。

ただのいい子です。いい子だったけれど、完璧じゃなかったです。できないことがありました。

ぶってなかった。

 

わたしは、わたしがいい子ぶってると周りの人から見られていたのかと思ってしまった瞬間から、急に同級生もそれまでの友人もみんな知らない人のように思えてしまったのでした。

友人だと思っていたけれど向こうはそうじゃなかったかもしれないという思いに取り憑かれました。

それ以来、学校で無理するなと言われると顔が少し引きつります。知らない人に見えるからです。

 

わたしは専門学校でどこからどう見てもオタサーの姫らしかったのですが、オタサーの姫と呼ばれることは嫌いでした。

姫になろうとしてなってるんだと思われたくなかったからです。

オタサーの姫ですよ(いまはどうか知らない、わたしはしばらく学校に行っていないから、もう友達なんていなくなっちゃってるかも。嫌だなあ)、でもなろうとなんかしてなかった。

 

わかって欲しかったけれど、専門学校の、うーん、ある種独特な、文系メンヘラを排斥したい流れに八方美人のわたしは逆らいたくなかった。

友達が欲しくて。

地元で、先生にもらった一言で信じられなくなってしまった小学校時代の友達の代わりに、こちらでは友達が欲しかったから。

 

それがなぜこんなことになっているのか……

 

 

わたしをこわした言葉があります。

誰か、わたしの友達が、いつかこの本当のことを言えないわたしを壊してくれたらいいのに、なんて偶に考えます。

でもそうしたらたぶんわたしは泣いちゃうだろうから、やはりメンヘラとして排斥されてしまうのかな。

 

友達を無くしたくないなあ。

どうか嫌われませんように。神様、お願いします。

おやすみなさい。