ノスタルジィのお葬式

遺書を殘す積もりでいろいろ考えてみる

かつて十四歳だったわたしも二十一歳になりました。

いや、こういう、自分のことを話すための場所をつくるということは、実に……七年ぶりくらいかなと思う。

かつて十四歳だったわたしも二十一歳になりました。

エヴァに乗れなくなったらもう生きてる価値ねーな、というのは当時のじぶんの表現ですが、いや、今になっても、変わらないものです。

むしろ年齢に対する劣等感というのは強まるばかりで、そうすると、喋ることが面倒で。

自意識というのはたったひとりで、それがだんだん肥大していくっていうのはちょっと思い込みだったみたいで、本当のところは、頭のなかにたくさんの自意識がいて、それらの議論に時間を取られてしまうって感じなのかなって思います。それがめんどくさい。

人間って、他人に対してはなろうと思えばいくらでも攻撃的になれるはずだけど、自分に対しては結構ムリだよね。

だから、他人の発言がそっと自分のなかの一人になって、人権と発言権を持ってしまったら、もう自衛の手段って残ってない。

誰も起きてない時間に体育座りで泣き言を言うのは恥ずかしいかなと思いつつ、かつて十三歳だったわたしが(いちばん自分が好きだった頃は十三歳だったんだ)、何をどうして二十一歳になってしまったのか、そして二十二歳になりつつあるのか、死に際を見極めようとしているのか、誰にも知られずにいるのはすこし寂しくなりました。

もう少し生きていたいと思う自意識の人権が認められるまで綴りたいなと思います。

 

懺悔のような気持ちで、こっそりとまだ生きていたいと思います。